今回は箒特集。
箒に対する愛着がこんなに強いのは日本人くらいではないだろうか?時代、あるいは場面によっては、掃くという“行為”に心の穢れ(けがれ)を掃くという側面さえ組み込まれている。
だから、掃く道具である「箒」そのものにも、想像を超えた努力が存在している。それに関わる人達のあらゆる知恵を集約し、実用性や美しさを追求して、そして、伝統を守り続けている。
時代に翻弄されつつも、受け継がれた「箒」を守るべく活躍している方々にスポットライトを当ててみた。歴史や環境は違えども、皆、ひたむきに活動している。
彼らがいる限り、日本の伝統は次世代へ受け継がれていくに違いない。
山本勝之助商店は明治13年(1880年)、山本勝之助氏が19歳の時に始まった。元々、和ろうそくを生業としていたが下火となり、山物屋として新たに舵を切ったことで初めて棕櫚(しゅろ)を取扱い、以後棕櫚の生産・販売で台頭することになる。「山本勝之助は家業が傾いた時点で事業を受け継ぎ、起死回生の手として、棕櫚の生産・販路拡大を図りました。そこから紆余曲折を経て、今日に至っています。私どもは4代目ですが、この伝統を残していくことが大切なことだと思っています(土田氏)。」
左から、山本勝之助商店4代目 土田 高史氏、 |
そもそも山本氏が生まれた和歌山県野上谷地方(∗1)は棕櫚の産地として有名で、江戸時代、棕櫚の皮を剥ぎ、それは原料として江戸や大坂に移出していた。「江戸時代は壁下地として使われていました。竹と竹を組んで結ぶ紐に棕櫚の縄が使われていたんです。棕櫚は腐りにくく、水に強いですから。」 明治中期以降、野上谷地方でも棕櫚加工が勃興し、山本氏が棕櫚を全国に販路を拡大すると同時に、初めて機械を導入し供給量を増やしたことで、一躍黄金時代を迎えることになる。
「明治40年頃は棕櫚縄(漁網)が主力でした。山本勝之助は棕櫚縄の販路拡大のために全国各地の漁港を歩いて回りましたが、そこでやったのは富山の薬売りのような商売で、漁網を置いていき、使った分だけの料金を徴収するというやり方です。棕櫚縄は丈夫で水に強かったので、かなりの需要があったようです。需要に対し生産が間に合わなくなり、大阪から機械工を呼んで、棕櫚縄の機械化に着手しました。」機械化の成功により、棕櫚縄の供給量が増えるにつれ、野上谷地方の棕櫚の栽培(∗2)だけでは追い付かず、日本全国から棕櫚を買い取った時期もあったほどに隆盛を極める。野上谷地方は棕櫚により大いに潤い、人々の生活は安定した。 しかし戦後、この流れは激変する。生活様式が一変し、プラスチック製品の大量流入により、生活用品全般に使われていた棕櫚(∗3)は大きく衰退することになる(∗4)。「残念ながら、今では、棕櫚はほとんど栽培されていません。」供給量の減少に伴い、野上谷地方の棕櫚は杉、ヒノキに置き換えられた。棕櫚の加工もわずか数社が商いにしている程度だという。「日本全国を見渡せば、ほとんど壊滅状態です。我々が続けなければ、絶やしてしまうことになります。その使命感もあります。」
新たな用途・販路を開拓することで、日本の伝統として根付いた棕櫚。戦後、時代の移り変わりに翻弄され、その継続すら危ぶまれた時期もあったが、時代を経て、近年脚光を浴びつつある。
今、山本勝之助商店では山本勝之助氏が晩年取り扱い始めた棕櫚箒(しゅろほうき)を主に取り扱っている。一時は著しく衰退した棕櫚箒であるが、今では供給が間に合わないくらいに注文が殺到している。「独特の風合いが受け入れられているのだと思います。」元来(∗5)、棕櫚箒は板間を掃くのに用いられていたが、フローリングが普及した現在、再度見直されつつあるという。その中でも人気なのが、棕櫚箒の鬼毛仕様(∗6)。「棕櫚箒の鬼毛は繊維を梳(す)いて梳いて、残った繊維だけを集めて作った箒です。時に太いという表現が見受けられるが、それは棕櫚繊維全体から見たときに太いのであって、繊維そのものは庭箒で使われているシダよりも細いんです。」特徴としては耐久性・耐水性に優れていて、細かい土ホコリを掃き出すのに便利なこと。「例えば、床一面にホコリがついていたとしても、線が残らない掃き心地です。」棕櫚箒にはワックス効果があるとも言われるが、「確かに油分は含んでいるんで掃き続ければツヤがでます。ただ、そこまで使いこなすことですね(笑)。寺院などで使われているくらいに使えばツヤが出ると思います。」フローリングを掃くにはちょうど良い箒である。時代は伝統に再び、光を当て始めている。
棕櫚箒の鬼毛仕様 |
そして、土田氏は日本での生産を守りたいという。「材料についても国産にしたいのですが、あまりにも材料費が現実離れしています。例えば、棕櫚皮の内外価格差は約20倍です。 とても成り立ちません。」しかも今、棕櫚の木はほとんど栽培されていない。今から植栽した場合、皮剥ぎができるまで10年掛かるという(∗7)。「原料は中国産でも構わないので、日本での生産を続けていきたいと思います。」 「それに山本勝之助は共存共栄をモットーとしました。独立した弟子に対しても支援を惜しまなかったし、近隣の農家の方々にも積極的に協力したと聞いております。地域とともに成長してきました。その生き方と考え方、そしてその結果としての今の事業に私は誇りを持っています。今後も日本での生産を続けていきたいと思います。」 時代はある意味無責任なもの。長年培った伝統に背を向けることもあれば、後押しすることもある。それでもひたむきさを忘れずに生き続けることが大切なことかもしれない。
∗1)現美郷町、紀美野町、海南市を加えた辺りを野上谷と呼んでいたが、今は海南地方と呼ばれている。
∗2)棕櫚の栽培 棕櫚は繁殖力の強い植物で、7〜8年すれば皮の収穫ができ、こぼれた種からまた芽が出てきます。紀伊半島で棕櫚の木が多い理由には、雨が多いこと、比較的暖かいこと、斜面であることが挙げられると思います。これらの条件により、棕櫚が群生したと思われます。
∗3)棕櫚の代表的な用途
1 棕櫚皮
縄、網、マット、敷物、刷毛(はけ)、箒(ほうき)、蓑(みの)、鼻緒、敷きマット
2 耳皮
荒箒、荒タワシ
3 新葉
夏用の帽子、真田紐、団扇(うちわ)、笠
4 硬葉
ハエたたき、埃たたき、団扇(うちわ)
5 材幹
枕木、鐘木、床柱、額縁
∗4)棕櫚の変遷
棕櫚の生産は前述の通り、江戸時代に建築資材として大きな需要があり、紀伊国から江戸へ原料として移出されたことが記録に残っています。その後、明治になり原料の産地、和歌山県でも加工がさかんになり、様々な用途開発が行われ、生産量が一気に増加します。最盛期は大正9年頃で、その後、代替品(中国品やパームなど)が輸入されるようになり一時衰退しますが、第二次世界大戦前後の国内統制経済により、他の輸入品が途絶える一方で、棕櫚の需要が再び膨らみます。しかしながら、戦後、戦中に乱剥されたことが原因で、樹木が痛み衰え原料不足になったこと、また代替品(パーム、プラスティック商品)が急激に伸びたことにより、棕櫚の需要は著しく落ち込み、現在に至っています。
∗5)棕櫚箒は、1645年に刊行された俳論書『毛吹草(けふきぐさ)』に記録されています。
∗6)鬼毛仕様と皮仕様
棕櫚箒には鬼毛仕様と皮仕様があります。
採集した状態の棕櫚は、繊維と繊維が絡み合った1枚のシート状になっています。このシートを巻き、それらを横に並べ結束し、先端部分のみほぐしているものが「皮仕様」と言われ、シート状の棕櫚をほぐし、繊維間の樹皮を取り除き、1本の繊維にしてから結束しているのが「鬼毛仕様」と言われています。コシの強さは「皮>鬼毛」で、鬼毛はまるで筆のように滑らかです。
鬼毛仕様の棕櫚箒 |
皮仕様の棕櫚箒 |
∗7)棕櫚皮の収穫
植栽後、8〜9年経過すれば皮の採取に適当な高さ1〜1.5mになると言われています。そこでまず下枝(葉柄)が枯れるものが50cmとなるため、手入れをかねて第1回の皮剥ぎを行い、翌年は4〜5枚を皮剥ぎし、その翌年から通常の皮剥ぎとなります。
古くは、毎月1枚ずつ皮を剥ぐ方が良いと言われていましたが、通常春秋の2季のうち、いずれか1回で剥がされ、特に春の皮剥ぎの方が厚く広くて良質のものが得られるとして、春季に8〜9枚採取されているようです。