手編み座敷箒が誕生するまで

今回は箒特集。

箒に対する愛着がこんなに強いのは日本人くらいではないだろうか?時代、あるいは場面によっては、掃くという“行為”に心の穢れ(けがれ)を掃くという側面さえ組み込まれている。

だから、掃く道具である「箒」そのものにも、想像を超えた努力が存在している。それに関わる人達のあらゆる知恵を集約し、実用性や美しさを追求して、そして、伝統を守り続けている。

時代に翻弄されつつも、受け継がれた「箒」を守るべく活躍している方々にスポットライトを当ててみた。歴史や環境は違えども、皆、ひたむきに活動している。

彼らがいる限り、日本の伝統は次世代へ受け継がれていくに違いない。

江戸箒 鹿沼箒 棕櫚箒

江戸箒
白木屋伝兵衛にきく江戸箒

東京駅から歩いて約10分、大通りと路地が交差し、ビルが立ち並ぶところに白木屋伝兵衛がある。周りの景色にそぐわないたくさんの座敷箒が窓越しに見え、それが何かしらの意志にさえ感じられる。

白木屋伝兵衛、高野様

  白木屋伝兵衛の高野氏

「バブルの頃は『えっ、箒(ほうき)』って感じでしたね。」と笑いながら白木屋伝兵衛の高野氏は言う。伝統を軽視する風潮があったのだろうか、3〜5本しか売れない年もあったそうだ。 「『なぜ生き残ったの?』とよく言われますが、気付けば周りがいなくなっていたに過ぎません。職人との関係を大切にし、手を抜かず、できることを丁寧に続けただけです。我々が変わったというよりも環境が変わったということでしょうか?」

1830年、江戸の街京橋で白木屋伝兵衛は店を開いた。 江戸の街は水路を活用した運搬がさかんで、京橋付近は水路を利用して竹を集めていた。自然、荒物業の多くが店を構え、ザルなどの竹細工や畳表に加えて箒も取り扱われるようになった。
「当時の江戸ではすでに座敷箒が取り扱われていたようです。元々、創業前は今の銀座付近で水売り(∗1)をしていて、その後、隆盛を極めつつあった座敷箒作りに参入したので(∗2)、独自性を出すために新たな箒を考案して商売を始めました。」

それが今も作り続けている「串なし」の座敷箒だ。通常、座敷箒は、それぞれのほうき草の玉を横一列に合わせるときに串を通すが(この生産方法が今も主流)、「串なし」の座敷箒はこの串を使わずに手の握力だけで玉を合わせ、糸で結束する。 「従来の串ありの場合、串に通すことで穂がつまる(穂のふくらみがなくなる)ため、重心が中央部分に集まり、どうしても重くなってしまいます。串をなくすことで重さを分散させ、軽くした構造です。」

串なしのほうき

「串なし」の座敷箒

「江戸っ子はよくせっかちと言われていますが(笑)、おそうじに関してもちゃっちゃとやりたい性格だったと思います。その点でも、重いものより軽いものを求めた傾向が強かったと思います。」間違っても大相撲のように大きな箒でゆっくり掃き出すなんてことは、江戸っ子はしなかったでしょうねと高野氏は笑いながら話す。また、限られた地域に大量の人が住んでいたため、かさばるのを嫌い、コンパクトなものを求めたところもあったのではないかと言う。いずれにせよ、それまでのものより軽くなった“串なし仕様”が大いに受けた。 「それに、合理的な考え方を持つ江戸っ子は、無意味な装飾を嫌います。豪華に着飾ったところで、掃く機能が上がるわけではありませんから。」装飾にこだわらず、機能性・実用性を徹底的に追求し、それらに集中したことで生産性を上げ、需要に対応した。江戸っ子の性格とうまくかみ合ったようだ。

しかし、座敷箒の供給量が高まるにつれ、職人の確保が難しくなった。串なしの座敷箒は串を通さず、串の役割を人間(の握力)が負担し、その負担が解放された時に、重心が分散され、軽くなる仕組み。自ずと串ありの座敷箒より職人の負担が多くなり、作れる職人が限られてしまう。「だからでしょうか。白木屋伝兵衛では伝統的に職人を大切にします。他社は箒職人に対し、出来上がった数量に対してお金を支払っていましたが、白木屋伝兵衛では定額制です。もちろん、病気で一本も作れなかった時も支払います。」白木屋伝兵衛にしてみればリスクを払って職人を抱えることになるが、職人の立場から言えば、安心できる取引先となり、白木屋伝兵衛を優先する職人が多かった。
「今は3人の職人を抱えています。」その内の一人は3代にわたって箒作りをしているそうだ。また、今でも若い人が箒職人になりたくて白木屋伝兵衛の門をたたくことがあると言う。「ただ、なかなか続きません。」と高野氏。「本質的なところで言えば、職人志望というより、作家志望のところがあります。つまり、自分の美意識・自意識を出したがる方が多いんです。自分を表現したいというか、認めて欲しいというか。でもその自意識を打ち消すところに、本質がありますので。」伝統を守り、実用性を真に追求する姿勢がうかがえる。

繊維を精製する前に箒にした「皮」 精製した後に箒にした「鬼毛」

良い箒には良いほうき草が欠かせない。白木屋伝兵衛では国産のほうき草作りにも力を入れている(∗3)。「残念ながら量に限りがあるので、すべての箒に国産のほうき草は使えませんが・・・、それでも国産のほうき草を作り続けています。」ほうき草の栽培はすべてが手作業なので、引き受け手が見つからない。「特にほうき草の収穫が大変です。ほうき草は背丈が高いので(2mくらい)通気性が悪く、汗でびしょびしょになります。・・・それを炎天下の8月に行うわけですから。農作業の王道(笑い)です。」今の機械化された農作業からは程遠いところにある。「元々は、千葉でほうき草を栽培してもらっていましたが、成田空港建設などの問題があって、今は筑波で栽培しています。」そこからは海外産に負けない良質なほうき草が得られるという。

  ほうき草の栽培の様子

しかし、根本的に費用対効果が合わない。「補助金とかが出ないと成り立ちません。」それでも国内でほうき草を作り続けるのは、たくさんの時間を費やし、試行錯誤を繰り返すことで得た細かいノウハウも同時に切り捨ててしまうことへの恐れがあるからだ。昔は膨大な時間があり、その時間が試行錯誤を繰り返させ、素材を生かすノウハウを積み上げてきたと高野氏は言う。今はその時間がない・・一気に何かを要求される現代。わびしさがぬぐえない。

ふと思う。今から始めたもので、100年後に伝統として残るものがあるのだろうか?

過去からのつながりで今があり、将来へつなぐために今がある。「次の時代にきちんとバトンタッチしたいと思っていますが、あまりにも環境が変わってきています。例えば、すし職人がすしを握る前に魚を釣りにいくところから始めるようなものです。」それだけではない。細かいノウハウは、幼少の頃から受け継がれていたものと高野氏は言う。「昔は、農家で生まれた場合、一生農家であって、他の道はありませんでした。それを否定的な側面で見れば、それ以外の可能性を打ち消していることになりますが・・、肯定的な側面から見れば、自分自身の成長とともにそのノウハウが積み上げられているということになります。」自然にノウハウを身に付け、試行錯誤ができる膨大な時間があったということだが、今はその時間が乏し過ぎる。

最近、高野氏は変化の兆しを感じると言う。「20〜40代の世代にも箒が良く売れています。昔は一日の始まりとしてお掃除をしていましたが、今は一日の終わりに、つまり共働きで帰宅した後に、おそうじをしている家庭が多いようです。そうなると、特にマンション住まいの方は音だけでなく、振動が気になります。そのような環境の中で、道具に自分の都合を合わせることに違和感を覚える方も多く、箒という極めてアナログな道具ですが、自分の都合に合わせた行動ができる点も受け入れられているんだと思います。」それに、今はストレス社会、「掃除機は掃除機で便利なのでしょうが、自分の都合に合わせて、箒でリズミカルに掃くことで、心がさっぱりしているのかもしれません。」

座敷箒を使う女性

「我々は『長く、大事に使える』ことを念頭に箒を作っています。1年でダメになるような消耗品扱いではありません。ものづくりの基本となっている単位が異なります。もちろん、消耗品を一概に否定するわけではありませんが、それぞれの立場でできる選択肢を社会に提供することが大切だと思っています。」時間を重ねて得られるモノとの関連性、いわば“愛着”は、物を大切にすることで生まれるが、そもそも長く使える物でなければ成り立たない。「こういうものを求めている若者が増えているのも事実です。」

一度途絶えてしまうと、積み上げたノウハウも失ってしまう。再度それを積み上げるためには膨大な時間が必要となるが、今はその「時間」を許してくれない。その怖さを知っているからこそ、白木屋伝兵衛は時代に流されず、伝統を守りつつ、今を大切に生きている。

∗1)現在の江戸は水の確保が難しいため、多摩川から水を引くだけでなく、水売りとしての商売が成り立っていた。
∗2)コラム1参照
∗3)コラム2参照

コラム1 座敷箒の起源
座敷箒は江戸中後期以降に普及しました。
座敷箒に使われるほうき草はホウキモロコシという品種ですが、これは朝鮮通信使によって持ち込まれたとする説が有力で、ホウキモロコシの栽培は江戸界隈の練馬付近で行ったと言われています。ちなみに、座敷箒が普及する以前は棕櫚箒が主流でした。 座敷箒が台頭した背景には畳の普及があります。もとは武家の上流階級のものだった畳が、中流階級の町人に普及したことで、住環境が大きく変化し、それに伴って、表面をなでるような棕櫚ほうきよりも、畳の目に食い込むホウキモロコシが求められるようになったと思われます。

コラム2 国産のほうき草(ホウキモロコシ)栽培の変遷
江戸時代から戦後しばらくの間、日本でもほうき草の栽培が積極的に行われていました。ほうき草の栽培は、稲作農業の傍ら行われ、換金作物としての位置付けでした。今よりも品種改良が進んでいない当時は、米の出来不出来に生活が左右されることをもっとも恐れていたので、換金できる作物を栽培することは農家にとってはまさに命綱でした。その点、ほうき草は@収穫が早く、A農作物の傍らででき(育てること自体は難しくない)、B主となる農作物を収穫した後に加工することができるといった点で好まれたと思われます。 残念ながら、現在ではほうき草を作る農家はほとんどありません。その栽培が機械化されていないため、すべて手作業で大変ということもありますが(昔はそれが普通でありましたが・・)、換金作物の代替手段として、サラリーマンとの兼業という選択肢ができたこと。ライフスタイルの変化がほうき草の栽培に大きな影響をもたらしたようです。

コラム3 白木屋伝兵衛の新しい試み
傘の取手状の箒
プロダクトデザイナーと組んで、6、7年前に柄の先端を傘の取手状に曲げた箒を売り出した。柄は曲げやすいように籐でできている。曲げたことで掛けやすく、例えばドアノブ等にも掛けられる。機能性に加えて、収納性を備えることで、現代の住環境に合わせた箒を作った。

新しい取り組み

傘の取手状の箒

はりみ:
厚紙に柿渋を塗り付け強度を出し、竹の枠で補完することで、形を維持している。はりみは元々副業として北陸や上越の方で作られていて、はりみの由来は「貼り合わせた蓑」。プラスチックのチリトリと異なり静電気が発生しないため、ゴミやほこり がチリトリにまとわりつくことがなく、また、掃き込み口が薄いため、掃き残しが少ないのが特長。 持ち手部分を上から下に押さえつけると(通常通りにゴミを掃き集める動きをすると)掃き込み口が広がり、離すと抱え込むように掃き込み口が狭まる、自然素材の特長を生かした機能が面白い。

はりみ

はりみ

【あとがき】

2016年、アズマ工業は120周年を迎えます。

その記念事業として、2015年、アズマ工業の物づくりの原点である座敷箒作りをここ浜松で行いました。座敷箒に欠かせないほうき草を一から栽培すべく始動しましたが、タイで座敷箒を作るようになって久しく、一度途絶えたほうき草の栽培は、種や土地の入手から困難を極め、最初から相当な労力を費やしました。また、タイと浜松では環境が異なり、ある畑ではほうき草の一部が倒れ、ある山間(やまあい)の畑は収穫時に猪に荒らされ、ある畑は成長しきれず全滅してしまうという有様で、問題が次から次へと発生しましたが、その過程で出会った方々のおかげで、無事に成し遂げることができました。
一緒にほうき草作りを行っていただいたJAとぴあ浜松様及び青年部様に感謝申し上げます。

浜松での座敷箒作りはその活動記録をブログで公開中
東海道五十三次(東海道五拾三次)濱松・冬枯ノ図のほうき再現プロジェクト

また、ほうき草作りと併せて、日本で箒作りを続けている方に取材を行い、箒の歴史、伝統、そして箒作りに対する想いをお聞かせいただきました。今回、そこで知り合った方々のインタビューを特集号として掲載致しました。時代の趨勢に飲み込まれそうになりつつも、しっかりとした足取りで荒波を切り分け、その伝統を守るべく活躍されていることは前述の通りです。

人との縁がなければ何も生まれない。

120年を迎える前に、この当たり前ともいえることに改めて気付いたことは、アズマ工業にとって掛け替えのない財産となりました。この活動で知り合ったすべての方々に心から感謝しております。また、この特集をお読みいただいた皆様にも感謝申し上げ、筆をおきたいと思います。
ありがとうございました。

 

本特集を作成するに当たり、該当者へのインタビューの他、下記資料を参考としました。
参考資料
「農閑渡世名前書上帳控」 森田家文書
「鹿沼箒研究」 腰山巌著  昭和42年7月1日発行 発行人 鹿沼箒商工業協同組合
「海南地方家庭用品産業史」 平成元年五月発行 発行人 海南特産家庭用品協同組合
「シュロの歌−その植栽と産業的発展の歴史−」 西久保俊郎著 平成13年1月30日発行
「大江戸庶民いろいろ事情」 石川英輔著 平成17年1月15日発行
その他、インターネットより。

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